所長  中国弁護士 魏啓学
北京魏啓学法律事務所
 
1.私と商標法

中国初の『商標法』が1982年に制定される前に、私はすでに商標代理の仕事に携わっていました。その頃、中国はまだ計画経済の時代でした。

1963年4月10日に、国務院(内閣に相当)より公布された『商標管理条例』はまさに、計画経済時代の産物でした。当時、中国企業による商標出願は、厳密に言えば権利ではなく、義務でした。1978年、鄧小平先生が改革開放政策を打ち出したことで、『商標管理条例』の多くの規定が当時の情勢に合わなくなり、新たな法律の制定が必要になったのです。

私は幸運なことに、改革開放の潮流に乗り、『商標法』と『商標法実施細則』の起草に参加する機会に恵まれ、『商標法』改正及び商標事業の発展の過程において、忘れ得ぬ多くの人々との出会い、出来事を経験してきました。その中には、私自身のユニークな経験もあり、今書き残しておかなければ、時間の経過とともに歴史の中に埋もれてしまうことになるかもしれません。

2.商標制度回復前の状況

中国には元々商標制度がなかったと言う人もいますが、それは間違っています。1949年に中華人民共和国が成立されてから、1950年代と1960年代に商標管理に関する法律規定がそれぞれ制定されました。そのうち1950年に、政務院(内閣に相当)が『商標登録暫定条例』を公布し、『商標登録暫定条例施行細則』を施行しました。

その後、国務院は1963年に『商標管理条例』を公布し、全面的な登録制を採用し、未登録商標の使用を一切禁止するようになりました。当時周恩来総理の指示により、中国企業の外国への商標出願、外国企業による中国商標出願といった渉外商標業務は、すべて中国国際貿易促進委員会(1952年に設立、以下「貿促会」という)が担当してきました。

1966年から1976年までの時期、中国では、公検法(公安、検察、裁判所を意味する)及び工商局の業務が停止され、国内の商標出願業務も停止されていました。しかし、外国人による中国商標出願業務を中断できないという問題に対して、中国は輸出商品と外国企業の商標登録業務の貿促会への移管を決定したのです。
 

1969年3月、魏弁護士が広州で開催された中国輸出商品交易会で中国の経済と文化を紹介していた
 
 

3.商標代理業界への進出

当時、貿促会では任建新先生(後に中国最高裁判所の長官を担当)は法律事務部部長、柳谷書先生が同副部長であり、二人は同部の主要な業務を担当してきました。

任建新先生が同部を主管していた期間、旧商標管理条例における改革開放政策に合致しない条文や規定を改正することで、当時の中国商標制度の再構築に大きな役割を果たしました(もちろん、旧商標管理条例の改正には、貿促会を通じて国務院に申請し、国務院の承認を得て初めて、施行できた)。

私は1978年、貿促会の連絡部から法律事務部の商標代理処に異動となり、商標代理業務に従事することになりました。当時は歴史的な問題によって、工商局と商標局では正常な業務が実施されていなかったため、貿促会が工商局と商標局の業務、商標代理の業務を担当しており、同部の商標代理処の何名かの同僚が当該業務を担当していました。

このような状況がしばらく続いてきましたが、1978年、工商局と商標局が業務を再開した後、商標局は商標の保存書類と工商局の公印を持参して、鄧紹熙、劉麗、楊葉璇、李小平、侯麗葉などに業務を引き継がせました。その1年後に商標局は正式に対外業務を行うようになり、貿促会の二重業務も終わりを告げ、商標代理業務を専門に行うようになりました。

私の法律事務部への異動は、次のような理由によるものでした。1972年に中日国交正常化が実現され、1974年に日本特許庁から小林慶基先生と後藤晴男先生を含む3名の代表が中国に派遣され、中日商標保護協定についての協議が行われました。当時、中国企業はまだ海外進出しておらず、外国の商標はあまり知られていませんでしたので、日本の商標が中国で先取り登録されることは、あまりありませんでした。逆に、「同仁堂」や「狗不理」肉まん、及び中国漢方薬や中国特産物の中国の商標が日本で先取り登録されることは、多々ありました。そのため、中国企業が商品を外国へ輸出する際に、様々な困難に遭遇しました。この難題を解決するために、両国間の商標保護協定の締結が必要不可欠だったのです。

1974年から、中日両国は商標保護協定について交渉を始めていましたが、この過程において、両国の制度及び考え方の相違による問題が生じていました。例えば、それぞれの法律規定に対して、理解できない点や、意見が一致しないところが多々ありました。3年間にわたる厳しい交渉を経て、両国は1977年9月29日、ようやく『中日商標保護協定』を締結しました。中国側は中国対外貿部(現中国商務部、日本の通産省に相当)の李強部長(大臣に相当)が、日本側は佐藤正二駐中大使がそれぞれの国を代表して署名しました。また、実際にこの交渉の全過程を担当したのは、貿促会でした。

『中日商標保護協定』の発効後、日本からの商標出願件数が急増して、わずか半年で3000-4000件(当時としては、非常に大きい数字であった)に達しました。当時、商標代理処の人員は非常に少なく、しかも日本語が分かる人もいなかったため、多くの案件が滞っていました。そこで、任建新先生と柳谷書先生が貿促会の王文林副会長と相談したことにより、私は法律事務部に異動させられ、商標代理業務に従事することになったのです。

ところで、『中日商標保護協定』の締結前に、日本企業又は華僑企業に先取り登録されていた商標は一体どうなったのでしょうか。

この問題を解決するために、私たちが日本側に相談したところ、外国企業は直接商標出願できないので、商標弁理士の佐藤房子先生(佐藤先生はとても聡明で、能力の高い商標弁理士である。元日本特許庁の商標審査官で、本来無試験で商標弁理士資格を取得できるのに、彼女はやはり試験に合格して商標弁理士資格を取得し、『佐藤国際特許事務所』という事務所を設立しました。日本の弁理士は特許、商標の両方を取り扱うことができるため、商標業務を専門に取り扱う事務所は非常に少ない。佐藤先生のご主人である佐藤文男先生は日本特許庁の高官で、審判部長、審査部長と研修所所長などを歴任してきた誠実な方であり、中国のためにいろいろ力添えしてくださった。)と弁理士である坂野先生が中国企業による日本への商標出願代理業務を担当してくださることになりました。当時、『中日商標保護協定』はまだ発効されておらず、日本国際貿易促進協会の萩原定司理事長の名義で登録出願して、その後中国企業が日本への商標出願ができたら、同理事長が譲渡手続きを行うという変則的な方法を採用しました。

この過程において、佐藤房子先生は架け橋としての役割を発揮して、中国企業のために尽力してくださいました。また、中国商標が日本で先取り登録された案件のうち、ある日本人が天安門を商標として登録した特別な案件を取り扱いました。これは中国にとってとても大きな出来事でした。
当時、商標局が復活されたばかりで、私は当時の馬冠群局長に報告し、同意を得てから、商標局の名義で当時の日本特許庁長官に対して、天安門は中国の象徴であり、日本人がそれを商標として登録出願することは妥当ではないという趣旨の手紙を送付しました。その後、日本特許庁は行政権力を行使し、その商標を取消してくれました。

『中日商標保護協定』の発効後、佐藤文男先生と佐藤房子先生ご夫妻、日本弁理士会の井上重三先生など、多くの日本弁理士の先生方が中国を訪問してくれました。私は当時、このような十数名の知財専門家からなる日本代表団の接待に参加しました。佐藤先生ご夫妻がご来訪くださった際に、日本の知財関係の2冊の本をプレゼントしてくれました。1冊は日本の有名な弁護士である小野昌延先生と江口俊夫先生による共著『商標知識』で、もう1冊は神保弁吉先生と市橋明先生による共著『発明と特許』という本でした。当時、中国には商標制度や商標法に関する文章や著作がなかったので、私はこの2冊の本を宝物のように大切にして、真剣に勉強しました。この2冊の本のお陰で、私の商標と特許関連の知識は大幅に増えました。その後、私はこの2冊の本を中国語に翻訳して、中国で出版したいと考えました。そこで、著者の同意を得て、翻訳、校正と検証に数え切れないほどの時間を費やし、中国で出版することができました。
 

今、『商標知識』と『発明と特許』を翻訳した当時のことを振り返ってみると、本当にいろいろなことがあり、感慨深いものがあります。当時の中国は、商標と特許の知財保護制度がまだ遅れていましたので、日本語の法律用語に対応する中国語表現すらなかったのです。例えば、『商標知識』には、商標の分類方法、商標の役割、商標審査の手続き、知的財産権の一種であるということなどが書かれていました。

これらの内容がすべて当該本に明確に述べられていたので、私はそれを翻訳して財経出版社に連絡しました。その財経出版社はこの本に興味を示してくれましたが、ある問題のために出版には消極的でした。

それは、私が1978年に、辞書にも載っていない「知識産権(知的財産権、その当時は日本語は知的所有権)」という言葉を始めて使用したことです。当時、財経出版社から、「『知識産権』は、あなたが考え出した言葉なのか」、「それは法律用語であるのか」、「使用しても問題はないのか」、「商標出願の『書類』の中国語表現は『文件』に訳したが、当時は赤で印字された中央国家機関の重要書類だけが『文件』と呼ばれていたので、商標出願の『文件(書類)』というのは、あまりに大きい名前ではないか」などといろいろな質問をされました。

当時、財経出版社は明確な回答ができず、関連主管機関と上司に率直に尋ねました。「知識産権」という言葉の使用について、商標局の馬冠群局長が「魏先生は商標と知的財産権のスペシャリストであり、『知識産権』という言葉の使用の決定権は彼にあるべきです。あなたたちはこの言葉を認めてください。」と言いました。このように、出版社もようやくその出版に同意してくれました。こうして、『商標知識』の訳文は何度も調整され、調整されるたびに、私は全文をその度に書き直す必要があったため、とても骨が折れました。3回ぐらい修正され、文字総数は約10万字に及びました。昼間は仕事をして、仕事を終えてから深夜12時頃まで家で原稿を整理していました。つまり、私は、3回も一字一字を丁寧に書き直したのです。

しかも、当時は住環境も非常に厳しく、私はありがたいことに貿促会から1LDKの住居を分配されていましたが、一つだけのテーブルは子供の勉強机として使用されていましたので、私は約30平方センチの場所を確保して、ようやく『商標知識』の翻訳・出版にこぎつけたのです。
この本は中国で知的財産権を紹介した最初の本であり、商標に関する初めての本でもありました。その後、多くの人がこの本の構成を参考にして、商標の分類、商標の役割、商標の審査手続きなどの商標に関する本や論文を書き上げました。当時、この本は商標や知的財産権の仕事に従事する多くの人々の視野を広げました。

当時、私はわずかな原稿料を稼ぐために、本を出版したわけではなく、原稿料をもらった後、その本をたくさん購入して、商標局と商標代理処の同僚一人ひとりに一冊ずつプレゼントしました。

続いて1980年11月に、『発明と特許』という本の中国語版も出版されました。この本の出版過程でも、発明や実用新案を何と称するべきであるかなどという多くの困難に遭遇しました。日本語における「意匠」という言葉をどのように中国語に翻訳すればよいのかという難題があり、もし「意匠」という言葉をそのまま導入したら、出版社の審査を通るはずがありませんでした。アメリカには、デザインと特許は全部『専利法』に収められており、専利を総称として、意匠専利(Design Patent)と称されていたからです。
 

私は「外観設計」と名付けましたが、皆の見解は一致しませんでした。1979年、私は『商標法』の起草に参加すると共に、『専利法』及び『専利法実施細則』の起草にも参加しました。国務院に提出した報告書にある外国人による先取り登録された商標の例は、佐藤房子先生が提供してくれたものでした。資料を整理したのは私自身でしたので、『専利法』では「外観設計」という言葉を採用しました。

また、『商標法』を起草するために、『商標管理条例』を全面的に改正しなければならず、ある意味では、ほぼ廃止に近いものでした。

1979年、杭州で開催された全国範囲の商標会議に、約500人が集まったことを覚えています。私は、馬冠群局長からの指示で、その会議で商標の役割、審査の手続きなど日本の商標制度について、4時間にわたる講演をして、大きな反響を呼びました。

そのとき私が、商標は「知的財産権」の一種で、権利であり、財産でもあると紹介したところ、論争を引き起こしました。ちょうどその頃だったと覚えていますが、フライホイールの商標図面が描かれた1枚の紙を持ってきた旧上海工商局商標処の高処長(課長に相当)から、「魏先生、あるインドネシアの人が20万ドルでこの商標を買いたいと言っているのですが、この紙切れ、この図面に本当に20万ドルの価値があるのですか?」と聞かれました。

私は、「会議でも紹介しましたが、これは財産です。知的財産権として、もちろん価値があります」と答えました。この例からも、会議の参加者の皆さんは知的財産の価値を理解できました。そして、この会議の後、『商標法』の起草に反対する声は聞かれなくなりました。

4.商標局の設立

1978年に、工商行政管理総局が作業を再開した後、その傘下に商標局が設立され、全国の商標登録出願と管理の業務を管理するようになりました。当時商標局は、西単民族文化宮のそばの商業部のビルの10階に入居しており、馬冠群局長、李文正処長、鄧紹熙と張祖永などを含む20数名の職員がおり、その後楊葉璇、李小平、劉麗が加わりました。これらの仲間は、当時非常に困難な環境で商標案件を処理し、中国商標事業の発展の立会人となったのです。

5.商標法の起草と制定

1979年、中国は商標局の当時の馬冠群局長が責任者として、『商標法』の起草に着手し、段幼麟先生、李文正先生等がメンバーとして加わりました。日本の知的財産権法律がより健全であることを考慮し、私は光栄にも任建新先生と柳谷書先生に命じられ、『商標法』の起草チームに参加させられました。正直なところ、当時は商標に触れたばかりでしたので、法律を起草しながら、一生懸命勉強していました。

1980年、工商行政管理総局の当時の魏今非局長(大臣に相当)は、『商標法』の立法を視察するために、16名からなる代表団を率いて、日本特許庁を訪問して、日本の商標制度を調査しました。私は通訳として、代表団に参加しました。この視察を通して、私たちは特許庁で、商標の法律規定、商標審査の手続き、商標の類似判断などについて理解を深めることができました。また、訪問中に、多くの事務所を訪問し、商標代理の状況について勉強させてもらいました。

当時私たち代表団を受け入れてくれたのは、「日中経済協会」であり、当時の会長は日本製鉄株式会社(その当時は新日本製鐵株式会社)の会長であった稲山嘉寛氏で、後に日本経済団体連合会の会長も歴任しました。その訪日は大成功を収め、魏今非局長は代表団を率いて、東京、名古屋、大阪などを訪問した後、柳谷書先生、耿文英先生と私は、中国において渉外商標代理業務を行う準備のために、多くの特許商標事務所を訪問し、日本の商標代理の状況に対する理解を深めました。

帰国後、立法起草チームは『商標法』の制定に腰を入れて取り組みました。

当時、中国国内企業が商標出願するには関係部署の許可が必要であり、時間がかかるだけでなく、技術標準を提供することも必要でした。しかし、『商標法』起草の過程において、外国企業に技術標準の提供を求めるのは非現実的であり、中国企業には実現が難しいと判断したため、この規定は廃止されました。

当時、工商局の多くの人は、任意出願制度に変更されたら、失業してしまうのではないかと心配していましたが、どうやら余計な心配であったようです。

1982年、新中国成立後としては初めての知的財産権法である『商標法』がようやく公布され、出願、審査及び不服審判を含む新しい商標制度が確立されました。

6.「役務商標制度」の制定

   1993年、日本で「役務商標制度」は導入されました。当時、東南アジア諸国にはすでに「役務商標制度」が存在していました。商標局の当時の李必達常務副局長から私は、「魏さん、中国も『役務商標制度』を制定する必要があるので、何人かの審査官と弁理士を連れて外国を訪問して、学んでみませんか。」と声をかけられました。

   そこで、私は商標局の審査官と弁理士からなる訪問団を組織して、日本と東南アジア諸国を訪問しました。日本はちょうどその時「役務商標制度」を制定したばかりでした。帰国後、日本で学んだ内容を中国の状況と結びつけて、中国の実情に合致した「役務商標制度」の構想を長い文書にまとめ、商標局に提出しました。
帰国して2日目、李必達常務副局長から電話があり、「魏さん、杭州で『役務商標制度』をテーマとする商標会議が開催されます。ぜひ参加してください。」と言われました。そこで、私はその翌日杭州に赴き、関連問題の検討に参加しました。十分な根回しと準備を経て、「役務商標制度」が発表されました。
 
 
7.模倣対策業務の大きな発展

中国で偽ブランドが出現したのは20世紀80年代後半のことでした。外国商標を模倣して自分の商標として登録する人が出てきたのです。例えば、日立が冷蔵庫に使用する商標「HITACHI」について、その最後のアルファベット「I」を「O」に変えて、「HITACHO」冷蔵庫に使用する人がいたのです。

20世紀80年代後半から90年代にかけて、私は貿促会で多くの模倣対策事件を担当していました。例えば、北京阜成門外にある万通モールの1階にあった化粧品専用売場には、日本の資生堂の商品を模倣したたくさんの化粧品が販売されていました。そのため、資生堂から偽物製品の取り締まりの依頼を受けて、私たちは万通モールに人を派遣し調査させ、模倣店舗の位置と模倣品の情報について番号をつけて、地図に表示しました。その後、北京市工商局と協力して150人余りの「経済警察」と言われる工商局の担当公務員を派遣して、事前に把握していた情報に基づいて、多くの模倣品を押収しました。当時、テレビ局が模倣品押収現場を生中継して、大きな反響を呼びました。

私は、YKKのファスナー事件、日立の子会社のビデオ磁気ディスク事件など大規模な偽物製品の取り締まりを、数多く担当しました。

商標制度を制定した頃、できるだけ完全な法律を制定しようと思いましたが、やはり『商標法』の制定は徐々に完全なものにしていかなければなりませんでしたし、時代の推移に従い、新たな問題も生じてきたため、絶えず改正する必要がありました。

『商標法』を完全なものにする過程におけるたくさんの問題に対して、多くの学者は調査研究を進め、建設的な意見を提出しました。その代表的な人である鄭成思先生は、知的財産権、特に商標、特許及び海外の関連事情について詳しく、多くの論文を発表しており、私がとても尊敬している古くからの友人でした。鄭先生はとても謙虚な人柄で、イギリス留学から帰国した際に、「私が知財分野に足を踏み入れたのは、魏さんが出版した本を読んだお陰です。」と言ってくれました。
 

1990年代、『法制日報』が関係する専門家と学者を集めて開催した座談会に、私も参加しました。その座談会の主催者は、中国の知財制度に対して意見を提出することを参加者に求めました。私は、中国の法律がより権利保護を強化する方向に改正され、懲罰的損害賠償制度を導入して、権利侵害のコストを高めるべきであるという意見を提出しました。

それは私に先見の明があったからではなく、当時の現実状況をよく理解していたからでした。当時、中国メーカーが研究と製造技術の改善を繰り返して、製造した高品質の製品が販売された直後に、権利侵害されたということがよく起こっていました。しかし、調査や証拠収集、証拠保全、弁護士への依頼、訴訟提起などの権利保護プロセスには多くの時間とコストがかかり、最終的に受け取れる賠償金も僅かであり、権利保護のための費用を賄うことすらできませんでした。そのため、誰も権利の保護をしたくなくなったのです。商標権侵害に対して、もし放任主義を取り入れていたら、問題はますます大きくなっていくと思っていました。

8.商標保護制度における新たな問題点

中国の改革開放政策の継続的な実施に伴い、中国の経済発展及び国際交流・協力は大きな成果を収め、社会全体の知的財産権保護に対する意識も徐々に高まってきました。しかし、商標保護制度には、いくつかの新たな問題も生じていました。

(1)類似商標、商標の出願買占めなどの問題

現在の商標分野では、類似商標の判断方法、商標の出願買占め(短い期間内にたくさんの使用する意思のない出願をして貯めておくこと)及び有名人の名前の商標の先取り登録など、まだ解決すべき問題が多く存在しており、それらの問題について、法律のさらなる整備によって解決していかなければなりません。

(2)商標代理制度

2003年以前は、商標代理業務に従事するために、「商標代理人資格試験」に合格しなければなりませんでした。2003年、中国が世界貿易機関(WTO)に加盟したのを契機にして、国務院は、「商標代理機構の成立審査」及び「商標代理人資格の行政審査」を取消しました。その後、商標局は「国家商標代理人資格試験」を実施しなくなりました。そのためにある程度、商標代理業界において混乱をもたらしたのです。しかし、現在、諸外国にはこのような試験と制度が存在しています。

現在では、商標代理経験の有無にかかわらず、商標局に登録さえをしておけば、誰でも商標代理業務を担当できます。商標局の外で名刺を配って勧誘している人をよく見かけますが、尋ねてみると、彼らは商標法に関する基本的な法律知識さえも有していない、何も知らない人もいます。そのため、私は国家知識産権局局長に手紙をお送り、代理人資格試験の再開を提案したこともあります。

商標代理人資格試験が取り消された後、私は工商管理業務を担当する国務院の高官に手紙を書き、商標代理人資格試験制度を復活させるべきだと提案しました。他国は管理を強化させているのに、中国がそれを取り消したということは、中国商標制度の大きな欠陥であると私は考えています。商標事業の発展を後押しするために、商標代理人資格試験を復活させるべきだと考えています。

(3)模倣品摘発を業とする人

模倣品摘発を業とする人の性質と役割について、現在でも議論が続いています。私は、このような模倣対策は市場の浄化、権利と権利者の利益と消費者の利益の保護に有益であるので、支持されるべきだと考えています。

9.国際交流

商標代理の過程において、私は『商標法』、『商標法実施細則』、馳名商標関連規定、役務商標関連規定などの起草・制定といった関連立法業務に参加してきました。私は日本の知財政府機関、弁理士、弁護士など主に日本との多くの国際交流業務に携わってきました。また、欧米諸国との交流業務も行っています。

中国『商標法』の施行後、1982年に、国際知的財産保護協会(AIPPI)とライセンス協会(LES)という二つの国際組織の中国部会が設立されました。会長は任建新先生、事務局長は柳谷書先生で、私は事務次長を担当しました。1982年から2001年まで、私が事務次長を担当していた約20年間に、この二つの組織を通じて、専利局、最高裁判所、各地方の中等裁判所、税関、元品質監督局など各分野の専門家を日本に派遣して、日本の企業、裁判所、特許庁及び審査官との交流を活発に実施していました。

1995年、私はハイレベル代表団を組織して、日本の裁判所と事務所などを訪問しました。代表団は、当時の北京市高等裁判所の周志勇副所長を団長として、代表団は朝陽区裁判所の鄭剛所長、海淀区裁判所の李克所長及び他の地方裁判所廷長など計十数名で構成されていました。私も同行し、日本各地で講演を行い、中国の知財裁判制度を紹介して、大きな反響を呼びました。

1996年、任建新先生が最高裁判所を退官し、中国法学会の会長に就任しました。ある日、任先生から電話をかけてきて、「魏君、明日私と一緒に日本を訪問に行け」と言われました。ちょうどそのとき、私はマルチビザを持っていましたので、その翌日、先生に同行して日本を訪問しました。訪日中、当時の小渕恵三内閣総理大臣、日本最高裁判所の裁判官、多くの弁理士先生にお会いすることができ、代表団は東京、大阪、名古屋の裁判所を訪問し、大きな成果を収めました。

鄧小平先生は、外部の形勢は絶えず変化しているので、鎖国してはならず、改革開放が必要であると仰っていました。中国の知的財産権の国際交流がますます活発になることを心から願っています。

10.ご提案

商標制度の発展過程において、忘れ得ぬ人々や出来事がたくさんあり、私の回想はその一部に過ぎません。これらの記憶が、商標制度の成立と発展の過程を理解する一助となれば幸いです。最後に、中国商標事業の発展をより一層推し進めるために、いくつかの提案をしたいと思います。

まず、商標弁理士資格試験を復活されることです。また、私は、日本最高裁と法務省から招聘を受けて、中国の最高裁判所と地方の知財裁判所の裁判官と一緒に日本で特許権侵害に関する模擬裁判に参加したことが2回あります。このことから、中国でも商標事件の模擬裁判を実施することを考えるべきと思います。外国の状況を理解すると同時に、外国人に中国の状況を理解してもらう必要があり、中国の知的財産権制度の発展にとっても有益であると考えています。

 
 2019年9月、魏弁護士一行が日本法務省、日本最高裁、知的財産高等裁判所など共催の
「国際知財司法シンポジウム2019~アジア太平洋地域における知的財産紛争解決~」に出席